阪神大震災から15年
2010.01.18月曜日昨日1/17に阪神大震災からはや15年が過ぎた。 最初に映像を見たときは夢かと思いほっぺたをつねった程の惨状だった。 阪神高速は倒れ、いたるところから火事による煙がたち・・・。そして先日ハイチで同じ規模の地震が発生した。建物の造りが弱いので日本の何十倍もの人々が亡くなっている。人間は自然には勝てない。でもいつの日か地震予知ができるようになる日が来ることを切に願う。
昨日1/17に阪神大震災からはや15年が過ぎた。 最初に映像を見たときは夢かと思いほっぺたをつねった程の惨状だった。 阪神高速は倒れ、いたるところから火事による煙がたち・・・。そして先日ハイチで同じ規模の地震が発生した。建物の造りが弱いので日本の何十倍もの人々が亡くなっている。人間は自然には勝てない。でもいつの日か地震予知ができるようになる日が来ることを切に願う。
昭和49年、横須賀に引越しして間もなく事件が起きた・・・
『11月、大量の石油関連物質を積んだ 『第十 雄洋丸』 が東京湾で貨物船と衝突したのだ。衝突によって第十雄洋丸はリザーブタンク後方付近の外板に大破口を生じ、可燃性の強い液体であるナフサは衝突時の衝撃と火花によって簡単に引火し、一瞬にして大爆発を起こすととともに長大な火柱が立ち上り、ナフサを含んだ炎を浴びた貨物船も船全体が猛火に包まれ、船上だけではなく船内までも灼熱地獄と化した。人的被害は第十雄洋丸側が死者5人で生存者は34名(うち、熱傷7名)、パシフィック・アレスは死者28人で生存者はわずかに一名という大惨事であった。』
『燃えながら漂流し始めた雄洋丸はなんと私の住む横須賀までわずか1.8kmと大接近、タグボートでの必死の作業で漂流を止めた。しかし延々と燃え続ける雄洋丸、最後の手段として太平洋上まで持って行き、海上自衛隊を出動させ多くのミサイル、魚雷により沈没させた。なんと沈めたのは衝突から20日後のことだった。』
父がこの話をしてくれて言った言葉が、『こんな大惨事があって、当時はこの名前で大丈夫なのか心配したよ』と。
詳しい事件簿はhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nachi/zakki/yuyo/yuyo_10.htmlにて。
2つの雄洋が同じ年に横須賀に来ただけでも恐ろしい偶然だったのに、偶然はこれだけでは終わらなかった・・・さらに驚きの事実を発見してしまった・・・父もこれは知らなかった
つづく
私が使っていた神奈川を走る京浜急行という私鉄。
金沢文庫駅と能見台駅の間にある国道16号線沿いのガソリンスタンド・・・手の空いている従業員は電車に向かって手を振ってくれてた。
ちゃんと・・・働け・・・
私が使っていた神奈川を走る京浜急行という私鉄。
横浜駅の手前の踏み切りに、ボンボンを振ってる50歳くらいのオジサンがいた。 ボンボンの色は黄色
『もちろん』って?
『雄』の字を使うのを決めて、あと1文字どうしようかと思っていたら 『雄洋海運』 の名前が社報で目に付き・・・『洋』 は 『ひろ』 とも読むな、ってことで決めたんだって。 だから、もちろん 雄洋海運を知っているはずだ。
偶然とは恐ろしいもので。 私は1歳で横浜から横須賀に引越ししました。 その1ヶ月後、大事件が起きました。 私を追ってきたかのように横須賀沖で 雄洋海運の大型タンカー 『第十 雄洋丸』 が・・・
つづく